いまこそ、チューニングを「大人の良き趣味」へ。
オートエクゼ流、自動車文化論。

文化としての自動車の価値が問われる時代へ。

「歌は世に連れ、世は歌に連れ…」と言うが、自動車も然り。人々が憧れた自動車は、地域や時代によって変遷を重ね、それぞれの社会に夢を提供し、新しい生き方を実現してきた。自動車は、単なる道具や機械という存在を超えた「その社会固有の精神的価値」、つまり「文化」の一角を担ってきたと言えよう。
そして近年では、この「社会」と「文化」の枠組みが変わりつつある。様々な領域でのグローバル化の進展に伴って、「社会」が地域や国の範囲を超えて入り混じり、世界を横断する多様な「文化」が形成され始めたのだ。例えば、コンパクトな多目的車を理想とする文化と、なおも高級セダンを志向する文化は、今も、世界中に斑模様に混在する。ひたすらに高性能を謳歌する人々と、エコを至上の命題と考えるグループも、同様に共存し続けている。
エンジニアリング面でのグローバル化が加速し、規格や機能が均一化され、成熟した現代の自動車は、工業製品としての出来・不出来だけでなく、自動車に何を求めるか、自動車をどう使うかといった、私たち自身の意識との関係を問われているのであろう。いや、問われているのは、自動車そのものの側ではない。問題は、自動車とどう向き合うかという、私たち自身の「文化」の方向性なのではないか。

チューニングは自動車文化になり得るか?

ちょっと理屈っぽい話をすると、心理学では「欲求の段階的進化」という考え方がある。人間は現状が満たされるとその上を目指すということ。例えば生きていく上で欠かせない水、食べ物、睡眠等を「生理的欲求」と言い、それが満たされると次に「安全の確保」、「集団への帰属」、「社会的尊敬」、「自己実現」…と、欲求のレベルが段階的に高くなると言う説だ。 もちろん、ここでも「21世紀の人類は…」などと一般化することはできない。日本では、中国では…などの地域による規定も不可能だ。あくまでも、多様な欲求が混在しているのである。そして、どうやら、この欲求の段階を同じくする集団(社会)ごとに、その価値観を体現したものとして、世界を横刺しにした「文化」ができあがってきているらしい。
自動車に関して言えば、直近の先進社会では人々の「集団への帰属」や「社会的尊敬」の充足が、多数派の文化のエネルギーとなり、ある方向性を与えてきている。環境や資源に配慮する態度が、その所属する集団から受け入れられ尊敬されることは、もはや人間が生きていく上で欠かせない要件になっているからである。
だけれども、私たちの立場からすれば、それだけでは寂しい。皆と同じ無難な車に乗ることでは、どうしても満たされない思いが残る。何故ならば、私たちは車を単なる機械とは考えていない、敢えて言えば、私たちは車を愛しているからだ。車は、より自分らしい自分を実現するための、自分自身の分身だからである。私たちにとって、チューニングとは自己実現への挑戦なのだ。
で、それは自動車文化であり得るか。鍵は「社会的受容性」にある。現代の社会が必須とする健全な調和を満たさなければ、いかなる個性も文化としての広がりを持つことはできないだろう。それを満たした上でこそ、私たちは、初めてチューニングを人間の欲求の進化の最上段に対応するサブカルチャーとして、その存在意義を主張できるのである。

マツダ車のスピリットを継承する、私たちAutoExeの意志。

かつてマツダ黎明期に初代キャロルを開発するに当たり、当時の社長、松田恒次氏はこう語ったと伝えられる。「道路が狭くて経済的にも余裕のない日本だから小型になるのは仕方がない。だけど、だからと言って、アメ車の快適性を犠牲にするわけにはいかない」。その結果、「水冷・4サイクル・4気筒」の360ccエンジンが生まれ、「クリフカットのルーフと4ドア」を持つ全長3メートルのボディが生まれた。サスペンションももちろん4輪独立懸架式だった。ロータリーエンジンの開発を決意した時も同様。「V8のパワーと静粛性をコンパクトなボディに搭載したい」という思いからだったと言う。明らかに自動車を「文化」として捉えた挑戦と言えよう。
ロータリーの父、山本健一氏は、「自動車は独り善がりな技術開発を目指してはいけない。乗る人の感性にフィットさせることが重要だ」という発想から「感性工学」を提唱し、KANSEIという世界語を誕生させている。これも「人間の欲求に基づいた文化」と言えるだろう。
このように、マツダ車の歴史には、自動車文化に対する「こだわり」と、それを実現する技術の「ことわり」が息づいている。もちろん、時代は変わり、社会も激変し、人々の価値観も変化した。だから、求めるべき文化も、その解決手法も違う。だが、マツダ車の専門チューナーである私たちは、この誇るべきスピリットを、私たちの関わるささやかな領域で、現代に継承したいのである。

New Driving Sensation.真のサブカルチャーの創造を目指して。

で、最大の問題はチューニングによる自己実現の方法だ。従来の日本におけるチューニングは、それぞれの時代に色物的な流行が先行した結果か、社会的には眉をひそめられることも少なくなかった。モータースポーツからの無定見なパーツの転用や、若者たちの集団的示威走行など、むしろ反社会的であることを目的にした改造が原点にあったとも言える。その結果、永きにわたり車のチューニングに市民権が与えられることはなく、文化としての後進性を露呈することとなったのを忘れてはならない。
私たちの基本は、言うまでもなく量産車からの正常進化。エコという価値観=社会的な認知・尊敬を獲得したいという欲求を認めつつ、エコだけにはとどまらない人と車の心ときめく関係性を育んでゆきたいのだ。成熟した日本の社会において、これ見よがしではなく、「趣味の良い人」と頷いていただけるようなチューニングを目指したいのである。
あらゆる文化は、これまでも、常に成熟と変化を繰り返してきた。多数派の価値観を認めた上で、そこに安住し停滞することなく、さらなる個性化を目指すことは、より豊かな文化の創造につながるに違いない。私たちとしては、チューニングを、そのような意味での「サブカルチャー」に昇華させたいと願っている。
量産車の設計思想を見極め、その上で多数派のための過剰なマージンを削り、新しいドライブ感覚を創出する私たちのチューニング手法は、新旧モデル問わず不変である。いつの時代もブレない“New Driving Sensation”、これからもAutoExeのマツダ車個性化プロジェクトにご注目いただきたい。


■走りの「味」。その中核はフットワークにある。

人は車の中で、全身の感覚器官をフルに働かせている。皮膚や筋肉で振動や力を感じ、そこに目や耳、三半規管などからの情報も加わる。そうした中から、自分の足で歩く時と同じように、車の動きや路面を踏む感触を感じ取り、それぞれの車の特性に「食」の行為にも似た「味」の実感を見出しているのである。
もちろん、走りの味を醸し出す微妙な「何か」までを含めて、自動車の操縦と運動の中で起こっていることの全ては物理現象である。しかしごく普通の人々であろうとも、人間がその複雑なディテールを感じ取る能力は、いまだ計測器や数値で表せる内容をはるかにしのぐ。つまり「味」を具体的な数値に置き換え、再現することはいまだ難しい。この点でも「走り味」は「食」と共通している。
だが、この「走り味」を形づくる様々な要素の中で、人間は、その車の個性をどこに強く、あるいは深く見出すのだろうか・・・。タイヤが路面を転がりつつ、様々な凹凸を踏む。接地面に前後方向や横方向のすべりが生ずることによって生まれる摩擦力が車両運動を造り出す。それが車体に慣性力を作用させる。そして人間は、その様々な振動や力学的現象を肉体で感じ取る。このプロセスの全てを「フットワーク」と呼びたいと思う。そしてそのフットワークにどんな特質を「仕込む」か、それがドライバーや同乗者にとって、どれほどに心地よいものになるか。この「味」を「調理」するクッキング・プロセスこそ、車においてはサスペンション・チューニングなのである。
もちろん料理と同じく、良い味のためにはまず素材が大切である。この面において私たちの素材たるマツダ車は走りの能力や質に対して強いこだわりがあり、そのテイストが「文化」として定着しているヨーロッパで高い評価を受けてきている。とは言え、日本の道を舞台にしたドライビングのためには、欧州そのままの調理法が最適とは限らないし、逆にあまりにも「日本」を意識した和風な味付けも、時にヤワに過ぎると言える。と、ここまでお話をすれば、かねてよりAutoExeの主張をご理解の諸兄には推察して頂けるだろう。“New Driving Sensation”を標榜する私たちのチューニングは、まさに「量産車の枠を超えたスポーツ感覚」。たびたび述べるように、不特定多数のユーザーに向けて設定された量産車の過剰なマージンを削って、その分をドライビングを愉しむ人々のために活用するチューニングである。そして、そのことを自動車文化の一側面として語れば「より速く、より美しく走ることの歓び」を創造し続けることにほかならない、と私たちは信じている。

■走りの素材とレシピ。その基本を理解する。

こうした論議においては、感覚論にとどめず論理的・科学的な内容へと進めないと、右往左往の迷路に踏み込んでしまう。ここでは、とりあえず、フットワークを形作るサスペンションのそれぞれの要素の役割、働きについて、その迷路を解きほぐす基礎知識を以下に記しておく。

1:タイヤ
言うまでもなく、路面と車両の唯一無二の接点である。接地面全体にきれいに荷重が分布した状態を維持し、細かな荷重変動を抑えること、接地面からタイヤ骨格に至るたわみを活かすことが、粘弾性体であるタイヤを使う鍵。そして路面に対して直立させ(対地キャンバー=ゼロ)、真っ直ぐに転動させる(トー=ゼロ)ことが基本である。

2:リンク・レイアウト
サスペンション・リンクとは車体と車輪を連結する揺動腕。脚の上下伸縮(ストローク)が発生すると、車輪側と車体側のピボット(支持点)が相対運動を起こす。設計図面上では、車体側を固定して車輪側ピボットがリンク長を半径とする弧を描く、と考えるが、タイヤがしっかり接地している状態では車輪側が動かず、車体側が弧を描いて移動しつつ車輪を押し引きする現象が起こる。ストラットやダブル・ウイッシュボーン形式では、車輪側から車体側へ、ピボットを結んだ線を延長して交差した点が瞬間揺動中心、すなわち正面視では車体のロール運動の瞬間中心(ロールセンター)と想定される。側面視においても同様にリンクの瞬間揺動中心がピッチングセンターと想定される。

3:メインスプリング(主バネ)
車体に加わる加減速や旋回などの運動による慣性力や、タイヤが路面の突起を踏み越える時の衝撃を受け止めて蓄え、伸びることで解放する。この「荷重(重さと力)を受け止める能力」を表すのが「バネ定数」で、何kgの荷重をかけるとバネが1mm縮むか、X[kg/mm]で表す。バネ定数が高い(硬い)と、固有振動数も高まる。つまり揺れのピッチ、荷重変動が速くなる。したがって、走行時に加わる荷重の上限値によって組み込むべきバネの「強さ」が決まる。また、路面が窪んでいる時や車体が持ち上がる瞬間、タイヤを路面に押し付ける力も主バネが生み出す。つまりバネの自由長は伸びストローク限界より長くしておく必要がある。

4: ダンパー(ショックアブソーバー)
一般論としては、バネに蓄えられたエネルギーが放出されて振動を起こす時、それを吸収して動きを収束させるメカニズム、とされる。しかし車が走る中では、あらゆる状況でサスペンション・ストロークの「速度」を制御する、フットワークの質と味にとってはきわめて重要な存在。例えば走る中で絶え間なく起きている脚の細かな伸縮に対して、ダンパーが動き出し、そこで減衰がきれいに立ち上がるかどうかが、路面を踏む感触、直進性、手に伝わる舵の手応えなど様々な味となって現れる。車体や脚が大きく動く状況、ロールしてゆく車体の動きやコーナリングの過渡的な挙動などには、減衰特性の味付けがダイレクトに現れることは言うまでもない。

5:スタビライザー(アンチロールバー)
左右輪が逆方向にストロークした時にねじられるトーションバー・スプリング。つまり車体がロールする時には片側が縮み、反対側が伸びる。その動きに対してバネの反力を発生させることで横方向の慣性力の一部を受け止め、主バネを硬めなくてもロール量を減らすことができる。とは言え、片側輪が路面の突起を踏んでスタビライザーがねじられると、反対側の脚を引き上げる(縮ませる)作用も現れ、それがサスペンションの動きのしなやかさをスポイルすることも起こりうる。

6:その他
走りの「味」を構成する要素は、言うまでもなくサスペンションに限定されるものではない。その動きを支えるボディの剛性、或いはそれへの取付け部分の幾何学的ジオメトリー、さらにはタイヤへの入力装置であるステアリングやブレーキ、駆動系のチューニングでも、味わいは大きく変化する。もっと言えば、運転者との直接的なインターフェイスとなるステアリングホイールやドライビングシートも外すわけにはいかない。これらのレシピについては、いずれ、またの機会にお話しすることにしたい。乞う、ご期待である。

■スパイスの効いた「美食」として。自動車文化を担うチューニングとして。

こうして、人間が身体で味わう感覚と、それを生み出す技術的な要素を考えた時、私たちが走りの能力を追求しようとする人々(ただし実用性とはかけ離れたサーキット仕様ではなく、あくまでストリートベストとして)のためにできることが、様々に浮かび上がってくる。
例えばローダウンについてはラテラルリンクの車体側ピボットが下がるにつれて、瞬間ロールセンターの位置が急激に下がる領域に入り込む。こうなると車体の重心高が多少下がってもそれ以上にロールセンターが下がり、両者の距離が離れることで慣性力がロールを起こす梃子の腕が伸び、ロールモーメントが大きくなって、それを受け止めるために主バネ(とスタビライザー)のバネ定数をより高めなければならなくなる。 私たちのローダウン・キットは、まずこの幾何学的原則に着目するがゆえに、ほとんどが30mm以内の低下に止めている。また主バネまで含めたシステムでは、増大するロールモーメントに対応しつつ、脚のしなやかさを失わない荷重特性が得られるスプリングを丹念に選んでいる。
同じことはダンパーにも言える。ただ減衰力を高めて動きを「締めた」だけでは、荷重が加わった瞬間の動き出しも硬くなり、運動性において大切なタイヤの荷重変動が粗く、大きくなってしまう。さらに脚と車体の動き全ての「速さ」と「収まり」を調理する。これがチューニングの原則であり、もちろん私たちは基本構成から油路の細部に至るまで実走確認をしながら、そのデリカシーと最良の性能を追求している。さらに、サスペンションは実に多くの機構要素が相互に連結されて動くシステムである。その中で、連結腕は効率の良い形で力を受け、連結点は滑らかに摺動すべきである。この幾何学的・力学的関係は、何か(例えば車高)を変更すれば必ず他に影響が現れる。それを補正する仕組みもまた、私たちAutoExe の幅広いラインナップの中に用意されている。
単一商品の絶対性能ではなく、ベース車の素性を見極めたうえで、一つ一つのパーツ(素材)を吟味しスペックを決めるプロセスは、まさしく料理と同じ工程。結果的に走りの味として開花する。万人向けに低速時のマナーや快適性のマージンを過剰に高めた結果、やや薄味に仕立てられた量産仕様の味付けを、運転を愉しむドライバー向けに明確なスパイスを効かせたのがAutoExe仕様である。美食の極みではあるが、メタボとは無縁な健康食として、自動車文化の一翼を担うチューニングであると自負している。ぜひ、いちど、ご賞味されたい。